波瀾万丈の人生の開幕…

今だから告白します…高校デビューを狙っていました(笑)

いえ、冗談です…いや、冗談と言っても、こう言ってしまうと冗談にならないかな…(汗)なんでしょう…学生時代の私は一応ルールを守る人間なので、その環境でのルールを守りました。だから、中学生のときは中学生のルール(校則)を守っていたので、中学校の一部の友だちは、そう思ってしまったみたいですね~。

卒業アルバム写真

あとは、元々ギターを弾いていたのですが、それを知らない人が多かったので、私がバンドをやっていると聞いた友だちは、そう思ってしまったみたいですね。しかも、ときが経ち成人式のとき「ピカチュウ」みたいな金髪でいったら、本気で驚かれました。自分の中では、その都度環境に合わせただけなので違和感ないですし、私をよく知っている中学校の友だちは、な~んも不思議に思わなかったみたいですからね。

さて、高校時代の私と言えば、まさに「劣等生」。それしか表現はありません。。。先生から、「このテスト本気でやったのか?」と言われたり、「50m本気で走ったのか?」と言われる始末の高校時代でした。そして、これがその後の人生を「波乱万丈」へと導く、ターニングポイントだったのです。

このときほど、劣等感を味わったことがなかったので、まさに底値の状態でした。ちなみに、自分の中で高校時代の私は「勉強も運動もイマイチの劣等生」でした。だって、308人中300番でしたからね。一応、中学生では400人くらいいる中で、30番以内くらいでしたから、それなりです。

でも、そこはやはり30日間短期集中受験勉強だったこともあり、スタートから出遅れてしまいました。それが尾を引いたのか、それが私の能力だったのか、、、結局この成績は卒業までほとんど変わらず、完全な劣等生でした。

高校3年生文化祭(一番右端のベース)

しかも、、、好きなバスケも、「こんどは進学校だから、バスケが上手い人は来ないだろう」と思い、こんどこそレギュラーだ!と意気揚々にしていたのですが…体育館に行くとそこには、見たことがある顔ぶれが…そう、宇都宮地区の選抜メンバーが偶然集まり、晴れて強豪校のバスケ部へと突き進んでしまったのです(笑)

ちなみに、私の学年はそんな感じのメンバーでしたので、上の学年はキャプテンと副キャプテンを除き全員が退部するという始末。あげく、私の下の学年は、1年生大会で優勝する実力だったので、本当に強豪校に躍り出ました。

ただ、そのとき学んだことはたくさんあります。もちろん、私はそのメンバーでは勝ち目がなかったので、とにかく彼らの練習相手として、必死にくらいつきました。だから、練習後にシュート練習に付き合うのは当たり前で、自分でも最低100本程度は決めてから帰っていたので、毎日遅い時間までバスケをしていました。

そんな中、まさに今の私の基礎を作ったのではないかという出来事があります。(いや出来事か…?)それが、バスケ強豪校なのに「専門の監督がいない」という事実。。。笑えますよね。強豪校なのに。先生は、本当に座っているだけでした。だから、ユニフォームは、強豪校のくせして、上下のメーカーがバラバラ。

確か、上はコンバース、下はデューパーだったかな。。。で、アップ用のユニフォームを作っていなかったので、全員「古着のTシャツ」で、パステルカラーのカラフル集団。しかも、はやりの髪型を先取りしていたので、ツンツンヘアーやソフトモヒカン当たり前(笑)だから、周囲の高校の先生からは、自分たちの高校が勝つと、嫌がられましたよ~。何で、あのチャランポラン軍団に!と。。。

で、何が私の基礎を作ったかというと、そんなチャランポラン軍団でありながら、バスケには超真剣でした。とにかく「自分たちで考えるバスケ」をしました。その頃は、今のように動画で何でも見られる時代ではなかったので、あらゆる情報を探し、考えました。

例えば、NBAのビデオを録画して、それを日本人がやるにはどのようにしたらいいか。この戦術はどうすれば使えるのか。他のスポーツで上手くいっているトレーニングを取り入れるなど、やれることはとにかく考えてやりました。

ただ、結果は…ベスト8止まりで、なかなかベスト4にいけませんでした。やはり、他のチームは専門の監督が見ているから、ハンデがあったのですよね。でも、最終的には、3年生になったとき、専門の監督が着任して「メンタル」を徹底的変えることで、ベスト4になりました。

ちなみに、私は試合に出ることがないうえ、ベンチ入りも下の学年に取られてしまったので、本当に補欠で3年間を終えました。でも、練習では、全員で平等に考えるバスケをしていたので、その考える力は最高に身につきました。そして、私は審判が上手いと評価されることが多く、それをチームメイトに活かし、ファールトラブルの少ないチームになることに貢献したと思います。

あっ、バスケの話ばかりになりましたが、着々とベースを弾きたいという目標を叶え、高校時代にはバンド活動もしていました。ただし、そこでもいつもの目標設定をし、大学にいったらオリジナルをやるから、今はコピーで基礎練習と思って、ひたすらコピーをやっていました。

ですが…ここにも波乱万丈な話が。。。私は、バンドではそこそこ認められる存在だったのですが、そこに再び落とし穴が。。。

文化祭で、自分たちのステージが終わり「いや~、最高だったわ~」とメンバーと廊下を歩いていると、100m離れた反対側から、ピアニカとハーモニカの音が。。。

何と、同じバスケ部で、後にラッパーにある双子がゲリラライブをやっているではありませんか…このとき、私はまた劣等生になりました(笑)「あ~、自分は枠に囚われすぎだな…彼らは、バスケのプレーもそうだけど、ここでもそうか…すげーな…」と、思って高校最後の文化祭を終えました。

追伸:

そうそう、大学受験ですが、劣等生の私は現役では上手くいかず、「リアル偏差値38からの大学受験」ということで、浪人生活に突入しました。ちなみに、偏差値38は必死の努力の結果、一年間で62まで上昇し、無事「第4志望の大学」に合格しました…(笑)

30人中2人しか落ちない面接で見事に「2人」に入る…

大学時代の私といえば、奥田民生大好き人間でした。それこそ「一生懸命やるな手を抜け」な~んて言葉に魅了されていました。

奥田民生に憧れ、生き方さえも奥田民生になりたいと思っていた時期でした。大学に入った私は、ここでようやく人生の迷路に入りつつ、理性と本能のどちらにも反応しながら、その後のさまよいながら日々を過ごしました。小さなころに決めた「社長になる」という理性的な目標を持ちつつ、「やっぱりバンドで食べていきたいな」という本能的(?)な目標も持ち続けました。

だから、計画的なのか、そうでないのか、よくわからない大学生活を送りました。私と言えば、大学時代の友人からは「バスケ・バンド・バイト」と言われるくらいで、とにかくその3つに集中していました。

とはいえ、そこには理性的な目標も持ち続け、1~2年で可能な限り単位を取り、3~4年は授業に行かない時間を創業資金を稼ぐアルバイトに注力すると思いながら、計画的に単位は取得していきました。

ただ、そうはいいつつも、出なければ単位が取れない授業のみ出席し、その他の授業は学内カップルは、二人で授業に出る傾向があったので、仲の良い学内カップルと同じ授業を取り、出る授業と出ない授業を分けていました(笑)ということで、出る授業を最小限に抑え、余った時間は、バンドサークルの部室で過ごすという残念な生活を日々送っていました。

高円寺20000Vにて・バンド名は「パンチング太郎」

でも、出た授業はめちゃめちゃ集中しました。いや…そうでもなかったか…授業に耐えきれず、抜け出してポーターのウエストバック買いに行ったことあったな…。いや、集中したでしょう(笑)といいますか、大学の勉強は面白い。

だって、高校までの○×クイズのようなものではないのですから。一応、それなりの答えはありましたが、基本的には決まった答えがない。それが面白くて、私にとっては、このとき始めて勉強に打ち込むことができました。いや、勉強というより、趣味として没頭することができました。

そのかいあって、無事2年生までに成績上位者として、卒業に必要な単位をほぼ取得し、飛び級で大学院に行けるまでになりました。ただ、この飛び級ですが、実はまた迷路に入り…バンド活動を続けるために、どうにか学生生活を伸ばせないかと思い、この飛び級システムを調べました。

その条件を見たら、「あっ、自分イケる!」と思って、学校に聞いたら、条件が載っているのに認められず、なぜか怒られるという始末に。。。

他にも、成績上位者になったということで、大学教授に海外研修の制度に申し込むことをすすめられ、応募をしたのですが…30人中2人しか落ちない面接で…「秋山さんは、英会話ができないようですが、海外に行ってどうするのですか?」と聞かれ、「どうにかします」と答え、あえなく撃沈。。。たった2名しか落ちない、その2名に選ばれ、海外は遠のきました(笑)

そんな感じでしたので、就職活動も周りとは違ったおもしろな感じでした。今思えば、真面目なんだか、不真面目なんだかよくわからないです…。もちろん、内定をいただくまでに「もう、この一社を落ちたら終わりだ!」というところまで追い詰められたのですが、、、私は比較的早い時期に、ある上場企業に内定をいただきました。

そんなこともあり、後輩にそのコツを聞かれたり、そのとき使っていた本などが欲しいと言われました。おそらく、攻略本みたいのがたくさん出ていたので、そんなのが欲しかったみたいです。

ですが、私が就職活動のために買った本と言えば。。。何だったかな…SPIか何かの本が一冊で、他は全く何も買っていませんでした。だから、後輩からは「本当にこれだけなんですか!?」と聞かれ、「これだけ。なんだったら、代わりに日本代表のレプリカユニフォーム持ってく?」と返答しました。

バスケサークルの合宿(日光・華厳の滝)

ただ、今思えば、確かに本はそれだけだったのですが、新聞は学生にも関わらず3つくらい取っていた記憶があります。あとは「商業界」という業界誌をずっと読んでいました。だから、それらで得た知識を使っていました。だって、私にとって大学の勉強は、本当に趣味みたいなものでしたから、とことん探求しようと思って、そういう調べ物を日々していました。

ちなみに、この探求するのは音楽も一緒でした。楽器には総額いくら使ったか分かりません。一度だけ計算したことがありましたが、100万円は確実に超えていました。エフェクターは、色々試しましたし、最終的にはヘッドアンプを持ち歩いていましたし、使っていたメインのベースは、中身の改造しまくっていたので、もはやネックとボディ以外は、全く違うパーツになっていたくらいです。

しかも、叔父からの借り物のベースなのに(笑)もはや見た目以外に原型をとどめていないので、返却することはできないでしょう。今更ですが、お詫びします。申し訳ございませんでした。今は、息子がベシベシっ!と叩いて音を鳴らしているので、3代続くベースになっているということでお許しくださいませ(汗…)

そして、もちろんバスケも探求しました。最終的に、自分には監督の才能があると分かり、いつからか選手としてよりも監督…いやチームマネジメントをする立場としてバスケを探求しました。ゲームプラン、すなわち戦略を考え、その日の選手の状態を見て、最高の組み合わせをし、実際のゲームでは、ここが点を取れると分かれば、通じなくなるまで、そこを攻撃し続ける…などなど、選手よりも監督として考え、選手を配置し勝利を得ることに快感を覚えてしまいました。

でも、これが私にとって、その後の仕事人生に大きく活きる経験でした。もし、あのとき監督ではなく選手の範囲に留まっていたら、今は全くなかったでしょう。だって、大学では組織行動論や心理学をメインに学んでいたので、その学んだことを、すぐにチームに応用できたのですから。こんなに素晴らしい学びはありませんでした。理論をすぐ実践で試せる、最高の経験でした。

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