社会人一年目、人生最大の試練が…

大学卒業後、ある小売業の企業に就職。

夢と希望を持って就職。この会社を選んだ理由は「若いうちにマネジメント能力と経営感覚を習得するため」でした。店舗に配属されることは決まっており、その中で入社数カ月後から、アルバイトの人たちをマネジメントする経験を得られるのは何よりも魅力でした。

しかも、店舗ですのでそれほど多くの社員はいません。ということは、若いうちから責任ある立場になり、一つの店舗を経営する感覚が習得できると思っていました。だから、夢と希望を持って就職しました。ですが、、、ここで人生最大の試練が待ち受けていたのです。そこで待っていたものが、

パワーハラスメント…

ただ、その頃は、この言葉がようやく出てきたか出てこないかの時期でした。これは冗談ではなく、毎日個室に缶詰にされ、1時間以上の大きな声で叱責を受け続けました。はじめの頃は、先輩たちが上司から怒られているのを見て「仕方ないよ、できていないのだから」と思っていたのですが、いざ自分にそれが来ると…想像を絶するものでした。

毎日、「今日中に終わらせることリスト」が、ノートに2列分書かれ、多いときには裏面まで書いてありました。そのノートが何行だった記憶にありませんが、仮に35行だとすれば、毎日「70個」のすべきことが与えられたのです。

これは壮絶でした。。。いくらやってもやっても終わりません。もちろん、仕事はそれだけではありません。通常業務もあります。だから、帰るのは、いつも夜中の3時頃。次の日は9時には出社しなければならないので、4時間程度寝たら、すぐに出発する生活が続きました。

そして、出社すると、朝からとてつもない緊張。そして、叱責が始まる。いったい、いつ平常心で仕事をしているのか、全くわからない状況が約1年半続きました。

日光・戦場ヶ原

だから、気が狂いこんな雪が積もった中で、奥田民生ポーズをしたのでしょう。このときは、大学の後輩が突然宇都宮に来て「どこか連れてって~」と言われ、雪山の日光に行き、餃子を90個食べ、マイケル・ジャクソンの曲を、二人で大声で歌いながら遊びまくりました。

ただ、私はこの経験をしたことに、今になって感謝しています。もちろん、自分が経験してしまうと、それを知らず知らずのうちに人にしてしまうかもしれません。だから、そこは十分に注意しています。ですが、この経験をしたことで、私は「やりきる力」を習得することに成功しました。

毎日叱責を浴び続ける毎日でしたが、たった一度だけ、その上司が私を認めたときがありました。それは折込広告の準備だったのですが、その上司が認める「カンペキ」をやり遂げたのです。一つも難癖をつける部分がなく、その上司から出た言葉が

「カンペキだった。何も言うことはない。これであれば、お前に任せられるな。」

でした。その後、私は会社の意向で、(いまさら遅かったですが…)これ以上私がこの店舗にいると人材としてダメになってしまうと転勤になり、その上司と仕事をする機会はなくなりました。

ただ、これは良い話なのか分かりませんが、あれだけ厳しい環境にいたので、次の店舗では非常に気持ちよく仕事をすることができました。もう、あの70個ほどの今日中にやることリストはありませんし、叱責を浴び続ける時間もありません。だから、本来すべき仕事をすることができました。

繁忙期まで残り1ヶ月の状況で、アルバイトが全く育成されていない…というより、入って1週間ほどのメンバーばかりであったが、育成計画を立て実施し、繁忙期までに必要な能力の養成に成功し、滞りなく繁忙期を乗り切ることができました。

また、その人材育成の結果、入社2年目ながら、電池部門の売上構成比全国1位を獲得したり、販促方法が評価され、全店統一モデルになるなどの成果を得ることができました。そして、私はこれらの成果に不可欠であった「人材育成」に興味を持ち、あの小池和男先生のいる大学院に入学することになりました…

「知識ゼロ・経験ゼロ」からのRe:スタート…

法政大学大学院イノベーションマネジメント研究科に入学。。。

長い名前ですが、、、私は第3期生として入学しました。実は、第1志望の大学院があったので、この学校はどうかな~という気分でした。でも、実際に行ってみると、最高の出会いばかりで、私のその後の人生に大きな影響を与えるものばかりでした。そして、この大学院での知識と経験が、まさにT型人間と呼ばれる「経営全般のスキル」と「組織人事分野のスキル」を持ち合わせた人材に成長する礎となりました。

中でも、最も強烈だったのは、あの「世界の小池和男先生」との出会いでした…

小池先生は、かつて「ノーベル経済学賞に一番近い日本人」と言われた日本における労働経済学の第一人者です。単なる偶然ではありますが、私は光栄なことにその小池先生の「最後の弟子」として、1年間マンツーマンで指導をいただきました。

ちなみに、小池先生は、あのスタンフォード大学でも教鞭を取り、世界的に有名な企業のコンサルティングをしていたようです。あるとき、先生が「秋山さん…先日こんな学生がいましてね…」と、珍しく愚痴をこぼしていたのですが、そのときサラッとこんなことを言いました。

「秋山さん、私はコンサルティングをするときは、1~2時間で、200万円くらいいただくのですよ。」と。。。もちろん、先生はお金に縛られない人なので、それは代理人が決めただけみたいですが、それだけの価値がついてしまう先生から、私は指導をみっちり受けました。

故・世界の小池和男先生からいただいたお手紙

だから、周囲からは「小池先生を独占できるなんてうらやましい」と言われました。でも…その指導は想像を絶するものでしたよ。御年70歳をこえるとは思えないパワフルさで、よく同期と言っていましたが「目の奥がキラーン」と光る瞬間があるのですよね。

そうなると、スイッチオンです。めちゃめちゃ怖いです(汗)だから、ある同期は、蛇足の多いプレゼンテーションしたところ、途中で止められることも、ままありました。授業でそれくらいですので、マンツーマンでは正直ヤバいですよ…。

自分の経験したものや自分の考えではない、本から読んだものを話したり書いたりすると「全く相手にしてもらえない」という厳しい指導でしたから。ときには、ドラマの一場面にあるように、提出した50枚ほどのレポートをパーっと投げられ、50枚の紙が部屋を飛ぶこともありましたよ…(汗)

ただ、そのような中、「PM理論」と「リーダシップ理論」を組み合わせた人材育成理論を考案したところ「これは発明です!」と、小池先生が興奮しました。確かに、表面を見ると単なる組み合わせではあるのですが、深層はそうではなかったので、そこを先生は見抜いていたのでしょう。

私も、これをまとめることができて、ようやく「世界の小池の弟子」として恥じないことができたかなと思いました。ただし、もちろんこれで終わることはありません。実は、今でもこれを念頭に置きながら、実証実験を重ねています。だって、小池先生は、80歳をこえても研究を続けて本を書いているのですからね。

しかも、その姿勢が圧巻です。。。まえがきに「もう高齢なうえ、身体の調子があるので現場で多くの調査ができないが…それでもできる限り調査をし…」と、何歳になっても「現場調査」の姿勢を変えていないのです。だから、私も先生のイズムを受け継ぎたいと考えています。先生からは、「自分だから言える意見を言わなければ、そこには価値がない」ということを学びました。

そして、この考えは、それ以降、記事の執筆やサービスを作るときに活かされました。また「問題の本質を追求する」「何歳になっても学び続ける・探求し続ける」姿勢を学びました。まさに、これが私のコンサルタントとしての礎でしょう。

他にも、この大学院にはユニークな先生がたくさんいて「シリコンバレーの超有名企業のアドバイザー」「人工知能の先駆者」「カーナビの生みの親」「ファイナンスのスペシャリスト」などなど、他の大学院では絶対に出会えない先生方とめぐりあい、直接指導をいただきました。さらに、この大学院では「新規事業を計画し投資家から出資をしてもらう」ことを最終目標にしていたので、投資家へ直接プレゼンテーションする機会に恵まれました。

その投資家の一人から言われた今でも忘れない言葉が「初年度に1円でも黒字がでない事業に価値はない」です。当時、新規事業の企画と言えば、最初の2~3年は赤字で、3年目あたりでようやく黒字とうのが当たり前だと思っていただけに、とてつもなく大きな衝撃でした。

他にも「企画書をもってくる段階で、ほぼ受注に近い見込み客もいないようでは、その事業に価値はない」と言われ、衝撃を受けました。しかし、今思えばそれは正しいことで、それを25歳で知ることができたことに非常に感謝しています。

このような経験をし、2007年大学院を無事卒業し、経営管理修士(MBA)を取得しました。そして、在学中に、毎日のように「人材育成の仕事がしたいです!」と言っていた縁で、私の運命を大きく変える組織人事コンサルティングの業界へ足を踏み入れることになりました、、、そして、2007年私の運命に大きな変化が…

大学院卒業後・インキュベーションにて

私は、念願の組織人事コンサルティング業界に入ることができました。ただ、ここでは私の運命を大きく変える出来事が、2007年9月に待っていたのです。それが「ノウハウゼロ」の知識ゼロ・経験ゼロからの「webマーケティング」「ダイレクトレスポンスマーケティング」でした…

組織人事コンサルティング業界では、webマーケティングやダイレクトレスポンスマーケティング黎明期に近いこの時期に、これらに力を入れている企業はほとんどありませんでした。だからというのもありますが、それよりも何よりも、私にはノウハウがない…「ノウハウゼロ」の知識ゼロ・経験ゼロ状態からwebマーケティングに取り組むことになったのです。

先輩からのまさかの無茶苦茶な指示でした。もちろん、マーケティングを大学院で勉強していますが、この分野は学問と実践に、まだまだ乖離があるもの。そもそも、マーケティングという言葉の定義自体があやふや。まさに、これが私のマーケターとしてのスタートでした。

そんな状況から、コピーライティングやリスティング広告(PPC)、DMなどを駆使し、業界初とも言えるwebマーケティングやダイレクトレスポンスマーケティングの仕組みを確立しました。ただ、確立といってもその過程は茨の道。。。日中は営業に出ないと怒られてしまう会社だったので、マーケティングの仕組み作りの作業は夜になってから…だから徹夜することも多く、朝家に帰ってシャワーを浴びて、すぐに営業先に直行というのが当たり前でした。

DMも1000通くらいは、袋詰していました。そして、深夜に東京駅前の中央郵便局に出しに行ったり、日本橋の郵便局に持っていったりしました。でも、全く苦痛ではありません。だって、結果が出るのですから。

そうです…こうやって私はダイレクトレスポンスマーケティングの虜になり、快感を覚え、ここにどっぷりつかっていったのです。

ちなみに、これだけやっていたので、従業員人数1000名以上の上場企業を中心に「年間500社以上」の集客に成功し、業界内では非常に上手く行っていました。だから、ここではwebを使ったダイレクトレスポンスマーケティングである空中戦で見込み客を集め、地上戦の営業で顧客を獲得するという流れが上手く周り売上が安定していきました。

そうそう、もちろん私も営業をやっていました。営業では、ソリューション営業を得意とし、コンサルタントの役割も果たしました。その一方で営業も担当していましたが、誰も嫌がる「テレアポ」を得意とし成功率「3割」を維持し、その成功率の高さから、創業初の「コネなし受注」を上場企業から獲得しました。社名はもちろん無名、会社の実績もほぼゼロに等しい状況、先輩の手助けもゼロ、そして…実はそれまでに営業経験ゼロの中からの受注は大きな出来事でした。

このように、webマーケティングやDMなどを使ったダイレクトレスポンスマーケティングをしている企業が少ない業界ということもあり、それなりに上手くいったスタートでした。webでもDMでも、テレアポでも集客が上手くいく…もしかすると、このときの私は上手く行き過ぎていて、調子に乗っていたかもしれません。

今であれば、冷静に「まだやっている企業が少ないから上手くいっていただけ」と理解ができますが、、、だから、私は欲が出て、他の業界でも、このマーケティングスキルを試したいという欲求にかられました。

そして、そんなとき、そのときには全く想像できなかった地獄を味わう、あの企業から誘いがあり、私はまた大きく運命を変えることになるのでした、、、

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